経験と言葉の隙間


人は新しい経験をすると、それを理解したいと思います。経験を理解するということは、基本的にそれを言葉に変えることと同じです。ある経験を「理解しがたい」と感じたときは、その経験を表現する言葉が見つからないことを意味しています。

現代のデジタル社会では、あらゆる単語が0と1で数値化されています。単語はデジタル化された信号となり、機械やコンピュータによって管理、処理させることが可能です。光や音もビットとして送信できます。

デジタルカメラで美しいと感じる花の写真を撮ってみてください。そして、その画像をパソコンのディスプレイで拡大してみましょう。ズームアップしていくうちに、それは花と認識できなくなるでしょう。

そこに見えるのは、さまざまな色の点と、その間の空間だけです。さらに拡大すると、点の色さえわからなくなり、ギザギザの輪郭をした斑点だけが見えるようになります。花はどうなったのでしょうか?早朝の冷たい空気の中で震えていた花びらは、露にあたった太陽光線が生み出した小さな完璧な虹の姿は、どうなったのでしょうか?

花を見ていた時に感じた生き生きとした生命の振動は、デジタル化された画像の穴を通り抜けて消えてしまいます。これが、「経験」と「言葉」との隔たりです。

真理と生命は、いかなる形態の言葉によっても、捕えることはできません。経験と言葉、そして、存在と非存在の間の架け橋となるのが、「生命電子」です。それは、生命のエネルギーそのものである「無」の粒子であり、宇宙のあらゆる生命体をつなぐ存在です。