生と死に制約されないほんとうの生命

私たちの本当の姿とは、「エネルギー/意識」の究極的な物体である生命電子です。それは、人と人だけでなく、あらゆる存在と宇宙全体を包含しています。

生命電子は、生み出されることも、破壊されることもありません。つまり、私たち自身も、生命電子のレベルでは、生まれることも、死ぬこともないということです。

生命電子の流れは、生命という現象を引き起こします。その流れが目に見える形を持つ時、私たちはそれを「誕生」と呼びます。そしてその形が、目に見えないものに変化する時、私たちはそれを「死」と呼びます。私たちが「自分の人生」と呼ぶものは、この二つの時点を結ぶ現象です。

しかし、生命自体はその空間の間に制約されるものではありません。生命は生命電子の絶え間ない流れであり、無数の形でその姿を表すことができます。人の生命、あるいはいかなる生命も、現象である以上、始まりがあり、終わりがありますが、それは生命そのものではないのです。

生命電子に気づけば、他のすべての存在と自分がつながっていることを意識できるようになります。そして、言語を越えてコミュニケーションをとることができるようになります。

経験と言葉の隙間

人は新しい経験をすると、それを理解したいと思います。経験を理解するということは、基本的にそれを言葉に変えることと同じです。ある経験を「理解しがたい」と感じたときは、その経験を表現する言葉が見つからないことを意味しています。

現代のデジタル社会では、あらゆる単語が0と1で数値化されています。単語はデジタル化された信号となり、機械やコンピュータによって管理、処理させることが可能です。光や音もビットとして送信できます。

デジタルカメラで美しいと感じる花の写真を撮ってみてください。そして、その画像をパソコンのディスプレイで拡大してみましょう。ズームアップしていくうちに、それは花と認識できなくなるでしょう。

そこに見えるのは、さまざまな色の点と、その間の空間だけです。さらに拡大すると、点の色さえわからなくなり、ギザギザの輪郭をした斑点だけが見えるようになります。花はどうなったのでしょうか?早朝の冷たい空気の中で震えていた花びらは、露にあたった太陽光線が生み出した小さな完璧な虹の姿は、どうなったのでしょうか?

花を見ていた時に感じた生き生きとした生命の振動は、デジタル化された画像の穴を通り抜けて消えてしまいます。これが、「経験」と「言葉」との隔たりです。

真理と生命は、いかなる形態の言葉によっても、捕えることはできません。経験と言葉、そして、存在と非存在の間の架け橋となるのが、「生命電子」です。それは、生命のエネルギーそのものである「無」の粒子であり、宇宙のあらゆる生命体をつなぐ存在です。

言葉の限界

心の奥深くで感じる微妙な気持ちや感情を表現するのに、言葉の限界に直面することはありませんか?自分の心の奥深くにある何かを言葉にできなくて、悔しい思いをした経験はありませんか?

多くの精神的な伝統は、言語の枠内で認識することの限界を理解してきました。例えば禅は、名称をつけたり、考えたりすることなく、物事を直接見ることを志向しています。思考や心の中のおしゃべりを止めることで、人は存在のより深みを見ることができ、真実により近づくことができるとしています。

禅以外の偉大な教えも、しばしば言葉抜きで伝えられてきました。釈迦は約2500年前、優しい微笑み、あるいは花を持ち上げるといった簡素な行動で教えを表現しました。

歴史をふりかえると、真理は最初から言葉として存在するのではなく、まず視覚か感覚で捉え、その後、他の人に伝えるための手段として言葉で表現されてきたのです。

真実を言葉で表現することは時には可能です。しかし、その場合、言葉を真実へと昇華させてくれるのは、言葉そのものではなく、話し手が話した言葉の振動の力であり、周囲の環境の生き生きとした反応です。

言葉は私たちの日々の生活で役に立つものではありますが、真理の水を蓄える器としては小さすぎ、真理の流れを受ける止める網としては目が粗過ぎるのです。

物理的変化を生み出す意識

量子物理学は、物理的変化を起こすためには意識による観察が必要だと教えてくれています。機械ではなく意識だけが、これを可能にすると。何を意識的な観察と言えるのかについては、いまだに議論がありますが、多くの実験が「技術だけでは物理的変化は生まれない」と結論づけています。

たとえば、あなたがAという地点にいるとして、B地点にある物体を観察しているとします。そしてA地点にいるあなたの意識が、B地点にある物体に物質的変化を生み出すとします。これは、魔法のようではありませんか?

いかなる力やエネルギーなしに、つまり、引力や磁力、電力、放射線などの力なしに、別の場所において物理的影響を与えることができるのは、なぜでしょう? その答えが「意識」です。

意識には物理的変化を生み出す力があります。物理学において、エネルギーは仕事をする能力と定義されていますが、意識はそれ自体以外にはいかなる媒体も使用しないことから、エネルギーの特性を持っているだけでなく、それ自体エネルギーだといえます。

どうすればこれを、観察を通じて裏付けられるかはわかっていません。というのも、これらは現在知られているどんな計測方法でも観測できないからです。しかし、人類史上何度もそうであったように、人間がこれを検証する方法を見つけ出す日は必ずくるでしょう。私が呼ぶところの「生命電子」の研究が、真実の追究における最も実り多い分野になると信じています。

絶対的な真実性

人は体が斜めになっているとき、それを自分で感知することができます。感知できる理由は、その人の内部で斜めになっていない部分があり、それを基準にして傾きを把握する平衡機能があるからです。

また、人はウソをついた時、自分でそれを理解しています。それは、心の奥底では正直だからです。人の中には「絶対的真実性」があります。これは、人間の内部にある物差しであり、体の平衡機能のように、その人の正直さを測って、バランスがとれているかどうかを教えてくれます。

絶対的真実性は、だれでも生まれつき備わっているものです。それは揺るぎない存在であり、神性ともいえるものです。人が精神的模索の旅のどの段階にいようと、絶対的真実性は常にそこにあります。私たちはそれを生み出したり、成し遂げたりする必要はありません。単にそれを認識すればよいのです。

つまり、自分は神性以外の何ものでもなく、別個の存在ではないと認識することが、あなたの選択なのです。

しかし、私たちの心はエゴの影響下にあります。絶対的真実性が人の本質であると分かったとしても、エゴと断絶することは容易ではありません。

必要なのは、最も深い意味での「誠実さ」です。人は、日々の生活で本当の誠実さが欠けていることを認識したときから、その隙間を埋めるための献身的な実践に取り掛かり始めます。

良心の力

良心は、人間にまつわる大きな神秘の一つです。心理学や哲学だけでなく、経済学、政治学、法学など様々な学問においても、「良心」は重要なテーマとされてきました。

人間の良心で驚くべき点は、すべての人がそれを持っているということです。生活環境や経歴などに関係なく、だれしもが良心を有すると言う事実は、深い考察に値します。

自分の損になると分かっていても、あえて正直を貫く人がいるのはどうしてでしょうか?良心の声に従わないと、なぜ私たちは居心地が悪くなったり、苦痛にさえ感じたりするのでしょうか? 東日本大震災の後、なぜあれほど多くの人が、原発の近くで危険をかえりみずにボランティア活動に従事したのでしょうか?

それは、良心は私たちすべてが内面に有する絶対的真実性であり、生存本能を越えて存在する「神性」の核だからです。良心は人間の本質であるため、あえて、それを認識することはありません。良心はただ、そこにあるのです。

人を傷つけるようなことを言おうとしたり、しようとしたり、あるいは考えたりするだけでも、警告の小さな声が聞こえます。それは良心の力です。良心の声を無視することはあるかも知れませんが、その存在を否定することはできません。

ベルギーの詩人でノーベル文学賞を受賞したモーリス・メーテルリンクは「良い行いはそれ自体が幸せの行為だ」と述べています。人の偉大さや幸福度は、良心に従うことを選ぶかどうかによって決まります。

経験の主体とは

森の中で木が倒れて、その時にだれもその音を聞く人がいなければ、音は鳴るのでしょうか。だれしも「もちろん、鳴るにきまっている」と答えるでしょう。

しかし、私たちが音と認識するものは実際には空中のパルスであり、倒れる木の場合は土壌に激しくぶつかる木の幹によって生じる空気の急激な振動です。パルスが20~2万分の1秒(20~2万ヘルツ)だった場合、私たちの耳の神経は刺激を受け、その信号が脳に達した時、私たちは振動を音として経験します。

しかし、振動がその周波数より小さいか、大きかったら、空気を振動させることに変わりはなくとも、音を聞く経験は生じません。

つまり、音を認識する経験を生み出すためには、耳と脳を持っている人の存在が不可欠だということです。木が森の中で倒れても、周波数を受ける側がいなければ、その木は単にパルスを発信するだけということになります。

仏陀をはじめ多くの偉人たちは、音を聞いたり、物を見たり、味わったり、匂ったり、感じるのは、「意識」だと指摘しました。意識があってこそ、経験が生まれるということです。インドの哲学は、人間の経験の主体となる見えない存在のことを「体内に暮らす人」と呼んでいます。

意識は、人間のあらゆる経験に共通する要素です。起こった出来事自体が経験をつくるのでなく、意識がすべての現象を経験に変えるのです。

意識あってこその経験

私は米国アリゾナ州北部の小さな町、セドナに住んでいます。セドナは太古からそびえ立つ赤岩の群れの神秘的な美しさで良く知られていますが、中でも際立って美しい光景の一つが、砂漠に落ちる夕日です。夕暮れどきになると、青や榿、深紅、紫といった組み合わせが、言葉にできないほどの色の広がりを生み出します。

セドナの夕日を荘厳なものにしているのは、人間です。夕日を見るひとりひとりの意識が、比類ないほどの力強い光景にしているのです。

人の意識は、すべての現象に意味を与えます。私たちが日々味わう「経験」も、意識がもたらすものです。経験とはその瞬間に存在する全ての要素が人の知覚に及ぼす影響の総和であり、意識の覚醒のレベルによって、経験することの深さは異なります。

経験を通して受ける印象も、そこに存在するあらゆる物が与える印象を総体化したものになります。現代哲学では、これを「クオリア」と呼んでいます。言語や概念、デジタル化された情報とは異なり、経験のクオリアは複製できません。唯一無二です。

真の経験は、知識や分析、解釈を越えて、今を生きる瞬間、あらゆるものと共存することから生まれてきます。経験の世界においては、人とそれ以外の物との間に区別はありません。区別を感じているならば、それは現在にいるのではなく、名称や概念の世界に入ったということになります。

「同一性」という認識を抱く

エネルギーと意識は同一であり、それが私たちの実体です。自分たちが出会うあらゆる人、あらゆるものには、同一性があります。

この同一性は、神聖な創造力であり、宇宙の生命力です。この同一性が、すべてに息づいていることを知ることで、私たちはあらゆる人、あらゆる物に対して「慈愛」や「慈悲」を抱くようになります。

慈悲というのは哀れみとは異なります。哀れみは「自分はほかの人よりましだ」という差異の考えに基づいています。一方、慈悲は「あなたは私だから、私はあなたが感じることを感じることができる」という認識に基づいています。

他人に対しての行動においても、究極的に一つであることを認識すれば、他人を傷つけようという意図はなくなるでしょう。同一性を認識した時点から、他者や他の生命体に対する私たちの態度は、相手に利益をもたらそうとするものになります。

同一性を認識したとしても、私たちには依然、営むべき個人生活があります。人は自分がお腹を空かしている時に、他人に食べ物を与えようとはしません。どれほど愛情を感じていたとしても、人はガラガラヘビとキスすることも、サボテンを抱きしめることもしません。

しかし同時に、私たちはこうした外見上の分別が機能的なものに過ぎず、根本的なものでないこともわかっています。私はこの外見上の分別を「機能的エゴ」と呼んでいます。機能的エゴを残しながら究極的な共通性の認識を持つことはできるでしょうか? 私は可能だと信じています。

見える世界がすべてではない

好奇心は人間の性質の一部です。人は疑問を抱き、物事について、例えばどのように動くのか、どこからくるのか、知りたいと思っています。この好奇心と疑問の行き着く先は、自分が今あること、そして宇宙の存在の原点を知ることです。自分は誰なのか? どうしてここにいるのか?なぜ無数の星が存在するようになり、キラキラと輝くようになったのか、空はどこまで続いていて、その終わりの向こうには何があるのか――。これらは文明が幕開けて以来、何世代もの人々が抱えてきた疑問でもあります。

こうした本質的な疑問にこたえるためには、まず「見える世界がすべてではない」ことを知らなければなりません。「二重スリット実験」というのをご存じでしょうか?科学者が二本線の隙間から光を通したところ、その先のスクリーンに、二本線でなく縞模様が映し出されました。

研究者ははじめこの事実を信じることができず、計測に問題があったのだと思い、実験を繰り返しました。しかし、結果は同じでした。科学者たちの結論は、量子には意識による観察を通じてのみ現れる、確率波という物理的現実が存在する、ということです。

量子物理学のこうした理論は、人間のような大きな物体にも当てはまります。つまり、観察者は目を持っている必要はなく、「意識」がより重要だということです。目でなく、意識による観察が、答えを導き出すカギになります。