絶対的な真実性

人は体が斜めになっているとき、それを自分で感知することができます。感知できる理由は、その人の内部で斜めになっていない部分があり、それを基準にして傾きを把握する平衡機能があるからです。

また、人はウソをついた時、自分でそれを理解しています。それは、心の奥底では正直だからです。人の中には「絶対的真実性」があります。これは、人間の内部にある物差しであり、体の平衡機能のように、その人の正直さを測って、バランスがとれているかどうかを教えてくれます。

絶対的真実性は、だれでも生まれつき備わっているものです。それは揺るぎない存在であり、神性ともいえるものです。人が精神的模索の旅のどの段階にいようと、絶対的真実性は常にそこにあります。私たちはそれを生み出したり、成し遂げたりする必要はありません。単にそれを認識すればよいのです。

つまり、自分は神性以外の何ものでもなく、別個の存在ではないと認識することが、あなたの選択なのです。

しかし、私たちの心はエゴの影響下にあります。絶対的真実性が人の本質であると分かったとしても、エゴと断絶することは容易ではありません。

必要なのは、最も深い意味での「誠実さ」です。人は、日々の生活で本当の誠実さが欠けていることを認識したときから、その隙間を埋めるための献身的な実践に取り掛かり始めます。

良心の力

良心は、人間にまつわる大きな神秘の一つです。心理学や哲学だけでなく、経済学、政治学、法学など様々な学問においても、「良心」は重要なテーマとされてきました。

人間の良心で驚くべき点は、すべての人がそれを持っているということです。生活環境や経歴などに関係なく、だれしもが良心を有すると言う事実は、深い考察に値します。

自分の損になると分かっていても、あえて正直を貫く人がいるのはどうしてでしょうか?良心の声に従わないと、なぜ私たちは居心地が悪くなったり、苦痛にさえ感じたりするのでしょうか? 東日本大震災の後、なぜあれほど多くの人が、原発の近くで危険をかえりみずにボランティア活動に従事したのでしょうか?

それは、良心は私たちすべてが内面に有する絶対的真実性であり、生存本能を越えて存在する「神性」の核だからです。良心は人間の本質であるため、あえて、それを認識することはありません。良心はただ、そこにあるのです。

人を傷つけるようなことを言おうとしたり、しようとしたり、あるいは考えたりするだけでも、警告の小さな声が聞こえます。それは良心の力です。良心の声を無視することはあるかも知れませんが、その存在を否定することはできません。

ベルギーの詩人でノーベル文学賞を受賞したモーリス・メーテルリンクは「良い行いはそれ自体が幸せの行為だ」と述べています。人の偉大さや幸福度は、良心に従うことを選ぶかどうかによって決まります。

「食事瞑想」で深いヒーリング

私は普段から少食をしています。ご飯は茶碗の3分の1、おかずは3種類ほどです。基本的には、肉体労働の多い人でなければ、少食がいいと思っています。いくら体に良い食べ物でも、食べ過ぎると病気になります。たとえ有機農野菜や無農薬玄米であっても、適度に食べないといけません。

食べすぎる習慣がある人には、食事を瞑想だと思うようにすすめています。「食事瞑想」は食事をしながら体の感じに集中することです。噛む感じ、味、食べ物が食道を通って下りていく感じ、それに対する体の反応などをすべて感じながらゆっくり食べると、単純に舌で感じる味よりもはるかに豊かで深い味を味わえます。

体の反応に集中して食べていると胃と脳からもうお腹がいっぱいだという信号が来ます。そこで食べるのをやめればいいのです。この訓練で自然に食事の調節ができます。

食べ物の裏にあるものまで考える訓練も大切です。例えば「これの産地はどこだろう?」「どんな人の手を渡って私の口に入ってきたんだろう?」というような過程を一つひとつ思い浮かべていると自然に感謝の気持ちがわきおこります。

食べ物に対する心の持ちようや食べる姿勢も違ってきます。目の前に置かれた食べ物を通して目に見えない多くの人、多くの生命と交流し、いいエネルギーを取り交わせます。そのとき、私たちの内面で深いヒーリングが起こるはずです。

地球の未来のために

地球の未来を考えたとき、おそらく多くの方がまっさきに環境問題を思い浮べるでしょう。私たちが暮らしている家が汚染されれば、その中で生きていく人も健康ではいられなくなるのは、当然のことです

いまや環境問題は、私たちの生存と直結する切実な問題です。無分別に消費してまだ使えるものをゴミとして捨て、一方ではそれを処理するのに頭を悩ませる、というパターンに陥っており、これが地球の未来を脅かしています。物質面での発達スピードに人間の精神が追いついておらず、地球だけでなく、人間自体も行き詰まった状態になっています。

人間は地球から最も多くの恵みを受け取っている存在です。にもかかわらず、これまで人間には地球にとって何の力にもなれませんでした。私たちはこれに対する責任を逃れることはできません。地球の汚染源とも言える人間が変わらなければならないのです。

人生の目的が変わらないといけません。目的に従ってすべての行動が起こります。現在の教育は一生懸命勉強して、いい大学に行って、いい職を得て、お金をたくさん稼いで、人よりも多くのものを所有し、たくさん消費するのが幸せだという情報を注入されています。現代社会における成功のシンボルを3つ挙げるなら、金、名誉、権力ではありませんか?

資本主義が作った、このような成功中心の価値観では環境問題も解決できません。金、名誉、権力も必要ですが、それよりもまず人格、利己的ではなく公的、全体のための精神が必要です。それが弘益精神です。多くの人が弘益精神を掲げてより高い次元の価値、すなわち「人格完成」のための人生を生きていくとき、根本的な変化が起こると思います。

日常生活の中の悟り

脳教育者、一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)氏は「悟りは選択である」と言います。この言葉には、悟りが厳しい修行の末に獲得するような特別なものではなく、ふだんの日常生活の中で訓練を重ねて到達できる現実的なゴールだという意味が込められています。

霊的な修練を積むために、あるいは瞑想をするために深い山のなかに入る必要ありません。確かに、ヨガ修行者や僧侶、または少数の平凡な人々のなかには禁欲的生活と苦行を積んで、最後に悟りに至ることもありますが、多くの現代人はこうした生活ができるわけではありません。

李承憲氏によると、大事なことは日常の中でも実践できる魂の鍛錬を通して、人生の究極的な問いに対する答えを探すことです。脳教育は、すべての人が悟りに至れるようにするための方法です。人類が最高の知識を得て、至高の文明を築いたとしても、大脳皮質の領域だけでは完成できません。理性と論理だけでは限界があるのです。脳幹の力を強化させることが唯一のカギであり、解決方法なのです。

李承憲氏は「人間の魂に完全なる変化をもたらす道は、悟りが大衆化し、常識になる道しかない」と言います。わずか数人が悟りに至ったとしても、社会全体が悟らなければこの世の中は変わりません。真の愛を回復した個人が集まり、悟りの文化が世界を変えるくらいの力を形成した時にこそ、人類はまばゆいほどの意識の進化を遂げるのです。

経験の主体とは

森の中で木が倒れて、その時にだれもその音を聞く人がいなければ、音は鳴るのでしょうか。だれしも「もちろん、鳴るにきまっている」と答えるでしょう。

しかし、私たちが音と認識するものは実際には空中のパルスであり、倒れる木の場合は土壌に激しくぶつかる木の幹によって生じる空気の急激な振動です。パルスが20~2万分の1秒(20~2万ヘルツ)だった場合、私たちの耳の神経は刺激を受け、その信号が脳に達した時、私たちは振動を音として経験します。

しかし、振動がその周波数より小さいか、大きかったら、空気を振動させることに変わりはなくとも、音を聞く経験は生じません。

つまり、音を認識する経験を生み出すためには、耳と脳を持っている人の存在が不可欠だということです。木が森の中で倒れても、周波数を受ける側がいなければ、その木は単にパルスを発信するだけということになります。

仏陀をはじめ多くの偉人たちは、音を聞いたり、物を見たり、味わったり、匂ったり、感じるのは、「意識」だと指摘しました。意識があってこそ、経験が生まれるということです。インドの哲学は、人間の経験の主体となる見えない存在のことを「体内に暮らす人」と呼んでいます。

意識は、人間のあらゆる経験に共通する要素です。起こった出来事自体が経験をつくるのでなく、意識がすべての現象を経験に変えるのです。

意識あってこその経験

私は米国アリゾナ州北部の小さな町、セドナに住んでいます。セドナは太古からそびえ立つ赤岩の群れの神秘的な美しさで良く知られていますが、中でも際立って美しい光景の一つが、砂漠に落ちる夕日です。夕暮れどきになると、青や榿、深紅、紫といった組み合わせが、言葉にできないほどの色の広がりを生み出します。

セドナの夕日を荘厳なものにしているのは、人間です。夕日を見るひとりひとりの意識が、比類ないほどの力強い光景にしているのです。

人の意識は、すべての現象に意味を与えます。私たちが日々味わう「経験」も、意識がもたらすものです。経験とはその瞬間に存在する全ての要素が人の知覚に及ぼす影響の総和であり、意識の覚醒のレベルによって、経験することの深さは異なります。

経験を通して受ける印象も、そこに存在するあらゆる物が与える印象を総体化したものになります。現代哲学では、これを「クオリア」と呼んでいます。言語や概念、デジタル化された情報とは異なり、経験のクオリアは複製できません。唯一無二です。

真の経験は、知識や分析、解釈を越えて、今を生きる瞬間、あらゆるものと共存することから生まれてきます。経験の世界においては、人とそれ以外の物との間に区別はありません。区別を感じているならば、それは現在にいるのではなく、名称や概念の世界に入ったということになります。

「同一性」という認識を抱く

エネルギーと意識は同一であり、それが私たちの実体です。自分たちが出会うあらゆる人、あらゆるものには、同一性があります。

この同一性は、神聖な創造力であり、宇宙の生命力です。この同一性が、すべてに息づいていることを知ることで、私たちはあらゆる人、あらゆる物に対して「慈愛」や「慈悲」を抱くようになります。

慈悲というのは哀れみとは異なります。哀れみは「自分はほかの人よりましだ」という差異の考えに基づいています。一方、慈悲は「あなたは私だから、私はあなたが感じることを感じることができる」という認識に基づいています。

他人に対しての行動においても、究極的に一つであることを認識すれば、他人を傷つけようという意図はなくなるでしょう。同一性を認識した時点から、他者や他の生命体に対する私たちの態度は、相手に利益をもたらそうとするものになります。

同一性を認識したとしても、私たちには依然、営むべき個人生活があります。人は自分がお腹を空かしている時に、他人に食べ物を与えようとはしません。どれほど愛情を感じていたとしても、人はガラガラヘビとキスすることも、サボテンを抱きしめることもしません。

しかし同時に、私たちはこうした外見上の分別が機能的なものに過ぎず、根本的なものでないこともわかっています。私はこの外見上の分別を「機能的エゴ」と呼んでいます。機能的エゴを残しながら究極的な共通性の認識を持つことはできるでしょうか? 私は可能だと信じています。

見える世界がすべてではない

好奇心は人間の性質の一部です。人は疑問を抱き、物事について、例えばどのように動くのか、どこからくるのか、知りたいと思っています。この好奇心と疑問の行き着く先は、自分が今あること、そして宇宙の存在の原点を知ることです。自分は誰なのか? どうしてここにいるのか?なぜ無数の星が存在するようになり、キラキラと輝くようになったのか、空はどこまで続いていて、その終わりの向こうには何があるのか――。これらは文明が幕開けて以来、何世代もの人々が抱えてきた疑問でもあります。

こうした本質的な疑問にこたえるためには、まず「見える世界がすべてではない」ことを知らなければなりません。「二重スリット実験」というのをご存じでしょうか?科学者が二本線の隙間から光を通したところ、その先のスクリーンに、二本線でなく縞模様が映し出されました。

研究者ははじめこの事実を信じることができず、計測に問題があったのだと思い、実験を繰り返しました。しかし、結果は同じでした。科学者たちの結論は、量子には意識による観察を通じてのみ現れる、確率波という物理的現実が存在する、ということです。

量子物理学のこうした理論は、人間のような大きな物体にも当てはまります。つまり、観察者は目を持っている必要はなく、「意識」がより重要だということです。目でなく、意識による観察が、答えを導き出すカギになります。

変化をもたらす「内なる不変」

あなたは「変化」についてどう思いますか?
変化が好きですか、それとも、嫌いですか?
変化が起きるとき、ワクワクしますか?怖いと感じますか?

人間には、安全と安心を求める本能があります。変化には常に危険が伴い、今あるものを失う可能性があるため、防衛本能として、多くの人は変化を遠ざけようとします。変化に抵抗を感じ、必要な改革に手をつけるのを躊躇するのです。

しかし、現代ほど変化が求められている時代はありません。環境汚染やテロ、紛争、貧困といった地球の現状を見ればそれは明らかでしょう。思想、行動、習慣、ライフスタイル、文化、制度。すべてにおいて深く大胆な転換がなされなくてはなりません。

大胆な変化のカギはなんでしょうか?
どうすればこれらの変革を起こすことができるのでしょうか?

それは、自分が一体誰なのかを知ることから始まります。私たちの「不変」の性質を知ることによって、変化が得られます。

私たちの行動は私たちの信念に裏打ちされたものです。その信念によって物事がどういうものか、何が可能か、どの程度の規模で可能かという私たちの考えが決定づけられます。

多くの人は今日、自分たちが世界において他の存在とは別個の単独の存在と信じていますが、この信念に疑問を持つことから、自分たちがいったい誰なのかを見つける旅が始まります。

この旅を通じて私たちは、自分たちが求め、夢見る変化だけでなく、個人として、そして人類としての私たちの「内なる不変」を見つけることができます。その不変こそが、変革に必要な勇気と力、知恵を与えてくれます。