愛の最終段階「道」

道(タオ)とは何でしょうか?道はどこかに属しているものでも、どこかに属せるものでもありません。従って一言で定義するのも難しいです。強いて言うなら、道は万物が生まれて滅し、固まったり散らばったりする自然の法則であり、宇宙の大生命力そのものです。

宇宙の大生命力の法則は、誰かが所有したり、支配したりできるものではありません。逆らうこともできません。ただそこに存在しています。

冬が去れば春がやってきて花が咲き、鳥が歌うように、また、日が沈めば月が昇り、月が沈めば日が昇るように、絶え間なく循環するエネルギーの作用が、まさにタオです。

愛の最も高い段階である道は、宇宙への愛です。それは、私たちはみな一つだということ、すべてでありながら同時に無でもある宇宙の生命エネルギーの様々な表現形態の一つだと、自覚することです。

ここで言う「宇宙への愛」は、無数の星や銀河で飾られた宇宙空間を愛するという意味ではありません。この世の万物に生命を吹き込む宇宙の自然の法則に気づくことです。

遙か彼方の宇宙空間まで行く必要はありません。身近な自然を見たり、自分の息を楽に整えながら、あるいは自分の身体の中で鼓動している心臓を感じることによって、私たちは宇宙の生命の法則を見つけることができます。

道の愛を別の言葉で表現すると「地球意識」ということになります。個人や団体の活動の中心に、人類と地球の生命活動に役立つことを据えるという意識です。

全人類の価値の中心に地球を据えることが、明るい社会を作り、地球平和につながるカギとなります。ある国家や民族、宗教を中心にすれば争い合うしかありません。人類が地球を中心に回ってこそ、人類の生命を保つことができます。私たちがお互いを同等の立場で尊重しあうときに、ようやく本当の調和と共存の共同体が誕生するのです。

愛の第2段階「忠」

孝の次の愛の進化段階は、組織や団体への愛である「忠」です。

忠といえば、一般的には国家に対する愛を真っ先に思い浮かべます。しかし、忠は国に限らず、企業や団体、共同体など、個人が属している組織・集団を愛することを意味します。

「忠」という文字は、中央を意味する「中」という文字と、「心」という文字が合わさったものです。「心の中心」と解釈できます。それは政治的な概念ではなく、大義のために心の中から自然に湧き出る自発的かつ実践的な献身を意味します。

忠誠心と使命感が分かれば、その人の意識は進化したと見ることができます。社会において「忠」は、組織の中で信頼され、認められる基本的な基準です。

本当の忠は、組織が自分を優遇してくれるときにだけ忠誠を尽くすことではなく、どんな状況であっても最後まで忠誠心を貫くことだといえます。

組織や会社、国などに属する個々人が本来の目的や使命のために尽くすと、誰もが強くなり、恩恵を受けられます。しかし、エゴと利己主義に陥って求心力が失われると、その組織は弱くなり、滅びていきます。

進化した意識とエゴの違いは明確です。この2つは中心が異なります。エゴは自己中心的で、自分の肉体と心の妄想による利己的な欲求と執着に縛られています。一方、進化した意識は全体の一部としての大きな絵を中心に置きます。つまり、「全体中心的」です。

この世で最も大きな中心は何でしょうか? それは、全人類と生命体をすべてまとめられる中心、それは地球です。ひいては、地球が属する宇宙です。個人の意識が地球と宇宙を抱けるほどに拡張すると、「道」レベルの意識になります。

愛の第1段階「孝」

東洋の文化では、愛の対象によって、または意識の成長段階によって愛の進化を3つに分けています。両親への愛である「孝」、国や団体への愛である「忠」。人類と宇宙への愛である「道(タオ)」です。

愛の対象が個人から団体へ、団体から宇宙へと広がるにつれ、意識も拡張していきます。これを「愛の進化」といいます。

愛の進化過程の第1段階は、個人を愛する段階「孝」です。孝という文字は、「老」と「子」が結合して子供が自分の親を助け仕えることを示しています。これを現代風に表現すれば、子供が愛情をもって親の面倒を見ることです。孝は、生み育ててくれた親の崇高な愛や献身への感謝と恩返しの自然な表現であり、義務感ではありません。

紀元前4世紀の中国の有名な思想家の荘子は「親を養う孝行は簡単だが、親を愛する孝行は難しい」と言いました。本当の孝行は、慈しみ深い真心から出るものでなければならないという趣旨です。物質的に親を養うだけでなく、無条件の愛から出る精神的な一体感と感謝を表現するのです。

世の中を眺める観念は、幼児期に定着します。家族の会話がなくなり、精神的な連帯感が弱まり、親が子供に模範を示せないでいると、より明るく調和した社会を作るために必要な中心価値を子供に教育できなくなってしまいます。

家庭は、各自の魂の成長のため、そして、その成長をサポートしあうために集まったひとつの小さな訓練場といえます。このような観点で家庭を見ると、子供の教育にあたっては、成功し出世しなければならないという教育ではなく、人間の基本的な品性と道理を教えることが重視されるべきです。

愛について

人間は互いに愛し愛されるために生まれてきたとも言われます。「愛」と言えば男女間のロマンチックな愛を思い浮かべがちですが、どんな人間関係にも愛は存在し得ます。親と子、師匠と弟子、友人同士、職場の同僚同士など、あらゆるところに愛は育まれます。

愛のシンボルとして、よく赤いハートが使われます。これは、鼓動する心臓を象徴しています。ほんとうは愛を感じる主な役割をしているのは心臓でなく脳ですが、人は往々にして愛の感情が心臓から出ていると感じているのです。

実際のところ、ロマンチックな愛を感じると心拍数が上昇します。これを生理学的に見ると、脳から分泌される神経伝達物質の影響で交感神経が興奮し、心拍数が増えるという生理反応になります。強烈な感情や情熱によって心拍数が増えると、そんなとき「生きている」という実感が強くなります。

歴史的に見ても、多くの文明において愛という感情は心臓と関係があると思われていました。古代エジプト人は心臓が魂と愛の留まる場所であり、存在と知性の中心だと信じていました。このため、ミイラをつくる過程で胃、肝臓、肺、腸などの臓器はすべて取り除いたのに対し、心臓だけは屍の中に残しました。一方、脳の重要性を知らなかったので、脳はすべてかき出して捨てました。

伝統的な東洋医学でも、心臓は文字通り「心が入っている臓器」と見なされ、心を最もよく表現したものが愛だと考えられていました。

古代インド思想によれば、心臓は7つのチャクラシステムの真ん中に位置する第4チャクラと関連があります。このチャクラは愛や憐れみが溢れ出るところであり、ヒーリングへと向かう扉です。すべての情緒的な経験が起こる場所であり、精神世界における肉体と心、男性性と女性性、ペルソナとシャドウ(表と裏)、エゴとユニティなど、相反するものを統合する役割をします。このチャクラが開いてバランスが取れていると喜びや愛を感じ、このチャクラが閉じてバランスを失っていると悲しみや怒りを経験するとされます。

より壮大な愛、包容力のある愛は、「無条件の愛」です。それは真我から出る自由な魂の愛です。無条件の愛は何の報酬も期待しません。何ものにも縛られず、周りの人、団体、地球、さらには宇宙全体まですべてを抱きます。私たちの意識レベルが高まって心が広がれば広がるほど、このような無限の愛の表現能力も高まります。

5つ目の徳目~「信義」

魂の成長に必要な徳目の最後は、「信義」です。

信義とは約束を守ることです。話したことを実行することです。つまり、言行一致です。

韓国の古代経典『参佺戒経(チャムジョンゲギョン)』に、こう記されています。「信義がある人は、たとえ親交がなくとも何としても心を合わせ、信義がない人は、たとえ血縁であっても必ず遠ざけねばならない」

古今東西を問わず、信義は人となりを判断する重要な基準です。人間関係のための基本的な徳目です。

信義は一般には自分以外の人との約束を守ることを指しますが、信義の始まりは自分自身からです。人との約束を守ろうとする前に、まず自分の心との約束を守らなければならなりません。

つまり、最初に決心したときの純粋な思いを貫くことです。最初に思い立ったときの純粋な心を「初心」といいますが、感情や欲望の影響を受けやすい人は、初心を忘れがちです。時間がたつうちに内面の案内者である「本性」の声に従わなくなるからです。

どんな困難な状況でも守れるのが本当の信義です。まるで断崖絶壁に追い詰められたような最悪の状況でも信義を貫くのは困難ですが、それができれば周囲から尊敬され、大切にされます。

信義を守るためには、信義を守れるほど魂が純粋にならなければなりません。魂が純粋になるというのは、気エネルギーの質が清くなることです。だから、私たちはエネルギートレーニングをする必要があるのです。

4つ目の徳目~「礼儀」

魂の成長に必要な第4の徳目は、礼儀です。

礼儀とは、愛と敬意を表すことです。エチケットやマナーなどの決められた行動様式をとるというだけでなく、心をこめて人に接することが大事です。

礼儀は心のエネルギーを込めて表現するものです。心と魂からにじみ出る本当の礼儀は、人を心から感動させます。私たちの声のトーン、顔の表情、身振りのひとつひとつには、心が余すところなく込められており、心がこもった礼儀でなければ、相手はエネルギーによってそれをすぐに感じます。

人生のすべての瞬間において人々に礼儀をもって接するべきです。上の人でも、下の人でも、友人でも、相手の社会的な地位に関係なく、すべての人に同じように表される敬意がほんとうの礼儀です。

往々にして私たちは、人とのコミュニケーションが難しいと感じることがあります。そんなときは、自分の性格や態度をチェックしてみましょう。好意的に接しているか、自分の話すトーンが攻撃的になっていないか、相手の話をしっかり聞かずに早合点していないか・・・

自分の行動をより良いほうに変えると、周りの人もそのエネルギーに影響を受けて行動や反応を好意的に変えることがよくあります。

礼儀は、人間に対するものだけではありません。天への礼儀も、大地への礼儀もあります。私たちを育ててくれた親を敬うように、天地も敬わなければなりません。天地父母、つまり私たちの生命の源である自然への愛と敬意を回復し、天と地に真の礼を尽くすべきです。

3つ目の徳目~「責任感」

魂の成長のために必要な徳目の3つ目は、責任感です。

責任感とは、与えられた任務を果たそうとする心です。自らの行動と決定が持つ力を自覚し、その結果に対してコミットすることです。

責任は、言い換えれば社会的な役割です。私たちは、この世に存在しているというだけで誰かに影響を与えますが、責任が大きければ大きいほど、与える影響力は大きくなります。

大きな責任を抱えると、重圧感やストレスを感じます。それは当然のことです。世界の誰一人としてストレスを受けずに成功した人はいません。成功する人は重大な決定を下さねばならず、それを成功させるために努力しなければなりません。

責任感を持つためには「これは私がすべきことだし、私がするしかない」という主人意識を感じることがカギです。確固たる主人意識があれば、どんな仕事をしていても、魂の成長のための仕事になります。

主人意識がないと、自分に与えられた責任を「自分のもの」と受け入れられないため、責任を荷の重い義務や自由を束縛する枷(かせ)のように感じられます。

責任を果たそうと最善を尽くすことは、自分自身だけでなく、属している組織、関わりのあるすべての人に役立つという意識を持ちましょう。あなたのする仕事が人類全体に役立つとしたら、これに勝るものはないはずです。

2つ目の徳目~「誠実」

魂の成長を達成するために不可欠な徳目として、2つ目に挙げたいのが「誠実」です。

誠実とは、自分に与えられた役割を果たすために最善を尽くすことです。自分の信念を貫くために心の限りを没頭することです。それは、心のこもった真正な態度として表現されます。

誠実な人は、自分がしている仕事に意義を見出すことができます。その意義を現実化するために、それぞれの瞬間に心を尽くします。

意義は、物質的なものでなく精神的な面が重要です。精神的な意義を見出せるような仕事をするとき、つらいこともつらく感じず、魂が成長するひとつのプロセスだと思うようになるからです。

誠実でいるためには、他のことに振り回されない集中力と一貫した意志が必要です。これを「一心」、または「恒心」といいます。

ある武士は若いころ、剣術を習得するために、木刀で大きな岩を毎日叩き続けたそうです。早朝から夜暗くなるまで休みなく振り下ろし、手にはぶあついタコができました。何本も木刀が折れました。

数カ月たったある日、思い切り木刀を振り下ろした瞬間に、岩が真っ二つに割れました。岩も割るほどに集中した力が、そうさせたのです。この武士のような岩の硬さにも勝る集中力と一貫した心。これが恒心です。

誠実は習慣であり、1日や2日で奇跡的に現れるものではありません。長い時間をかけて日々の行動によって身につけなければなりません。

1つ目の徳目~「正直」

魂の成長に欠かせない第1の徳目は、「正直」です。正直とは、偽ったり、騙したりせず、内心思っていることと表向きの言動、すなわち「本音」と「建前」が同じでいる状態です。

正直ではないことを「不正直」といいますが、これは2つに分類されます。1つは、意識的な不正直です。本人がウソだと分かっていながらウソをつくことです。金銭欲に目がくらんで会社の機密をライバル社に売り飛ばす会社員、名誉欲に目がくらんで他人の論文を自分のものと発表する学者、自分の権力を個人的な利益のために使う政治家などが意識的な不正直に当たります。これらは、いずれも「欲」が動機になっています。

不正直の2つ目は、無意識な不正直です。いわば「悪意のない小さなウソ」です。子供が自分の過ちを隠すために親に無意識にウソをつくようなものです。誰しも人生でそのようなウソをついたことがあるでしょう。悪意のないウソも繰り返していると性格の一部になってしまいます。正直をより意識的に自覚し、自らの人生のすべての面において正直かどうかを省みることが大切です。

魂の成長のために正直でなければならない理由は、大小の不正直が集まって自分の本性を覆う幕になってしまうからです。本当の姿が見えなければ、進むべき道筋も見えてこないでしょう。

まずはエゴの欲望を手放さなければなりません。欲望に執着しなくなると、自分の人生のあらゆる場面で正直という品性を育てることができます。このような潔癖さと透明性は、よりよい人間関係を築くのに役立ち、魂の成長に肯定的な影響を与えます。

私たちは人間なので完全無欠にはなれません。ときには失敗もします。でも、いかなるときにも正直さを失ってはいけません。良心に照らし合わせて恥ずかしくないくらい自分の心を磨き上げ、輝かせるのです。

魂の成長のための5つの徳目

魂が成長するには、5つの徳が必要です。その5つとは「正直」「誠実」「責任感」「礼儀」「信義」です。これらの徳目を見事に体現した偉人が、私が尊敬してやまないアメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンです。

ベンジャミン・フランクリンは小学校2年生までしか学校に通っていません。17人兄弟の15番目として生まれ、家が貧しかったので12歳の頃から兄が運営していた印刷所で働くようになりました。

2年ほどで印刷業務に慣れ、新たに学ぶことがなくなったため、自己啓発に没頭し、独学でフランス語、イタリア語、スペイン語、ラテン語を自由に使いこなせるようになりました。18歳の頃には新聞発行人になっています。

フランクリンは現状に安住せず、絶え間ない努力を続けます。科学者として放電の原理を発見し、避雷針やフランクリン暖炉を発明。政治家になってからは、アメリカ独立革命のリーダーとしてイギリスからの独立を実現させました。

人生には富や名誉、権力よりも大事なものがあると気づき、20代で「人格完成」という人生の目標を立てています。多くの業績を残しても自惚れず、死の瞬間まで人生への誠実な態度と謙虚さを失いませんでした。自分の墓には簡単に「印刷工 ベンジャミン・フランクリン」とだけ刻ませるほど、最後まで虚栄心やうぬぼれを警戒しました。

私はベンジャミン・フランクリンの生き方と哲学に深い感銘を受け、日本や韓国、アメリカにベンジャミン人間性英才学校をつくりました。

「正直」「誠実」「責任感」「礼儀」「信義」といった徳は、金や権力で買えるものではありません。知識で作れるのでもありません。自分の内面に存在している価値を見出し、身体の利己的な欲求に勝ち、日々よい選択をし、よい習慣を作ることで身につけられるものだと思います。